津田梅子の留学先はどこ?5人目の留学メンバーは誰?ドラマにいないのはなぜ?

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3月5日にテレビ朝日系で放送されるスペシャルドラマ『津田梅子〜お札になった留学生〜』。

2024年から新5000円札の「顔」となる津田梅子の青春時代にスポットを当てたドラマです。

津田梅子は日本初の女子留学生として知られていますが、留学先はどこなのか、どんな経緯で留学したのか気になりませんか?

また留学した少女は5人と言われていますが、ドラマに登場しない人がいるようです、なぜでしょうか?

今回は津田梅子の留学先や一緒に留学したメンバーについて調べてみました。

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津田梅子の留学先はどこ?

 

津田梅子は日本初の女子留学生です。

1864年(元治元年)、佐倉藩(現在の千葉県佐倉市周辺)の幕臣だった津田仙(つだ せん)の次女として生まれました。

父・仙は江戸幕府の使節団の通訳としてアメリカに渡った経験もあります。

英語が堪能で、先進的な考え方を持つ人物でした。

仙の勧めで梅子は留学することになりました。

6歳といえば、小学校に入学する年齢です。

まだまだ小さい時期に親元を離れ、遠い外国の地へ留学するなんてすごいですよね。

1871(明治4)年、アメリカに留学しました。

最年少の梅子は最年少の6歳で、英単語を2、3語知っている程度だったそうですよ。

1871年12月、横浜を出港したアメリカ丸には津田梅子を含め5人の女学生が乗っていました。

翌1982(明治5)年1月にはサンフランシスコに到着し、シカゴ経由でワシントン郊外のランマン夫妻に預けられています。

梅子は1978(明治11)年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校アーチャー・インスティチュートへ進学しました。

(アーチャー・インスティチュートは今はリーダーシップ教育、特に環境分野に力を入れているようです)

フランス語、ラテン語、数学、物理学、天文学などを学び、11年間アメリカで暮らしました。

休暇の際は、ランマン夫妻とともに各地を周りアメリカの文化や風土に触れたそうです。

8歳のときにはキリスト教の洗礼も受けました。

確たる目的を持って外国に渡った男子留学生と違い、女子学生である梅子たちが学ぶのは専門分野ではなくいわゆる一般教養でした。

アメリカの女性としての生活をし、教養を身に着け、帰国後は北海道開拓使で仕事をすることが約束されていました。

 

アメリカ社会で育って来た梅子は、帰国後に女性が教育を受けられない日本社会にカルチャーショックを受けます。

北海道開拓使は解散、梅子たちが教師として働くはずだった女学校も閉鎖となり、仕事をさせてもらえませんでした。

結婚していない女性は一人前とみなされず、アメリカで得た「どう生きるか」を選べるような機会や価値観は、当時の日本には皆無でした。

だからこそ女性が教育できる機会を増やそうと、奔走し女子英学塾(現在の津田塾大学)を作るに至りました。

ドラマでも、男性と対等でない女性の立場、女性自身が男性より劣っていると考えているマインドなどにショックを受けたり悔しい思いをする場面がいくつもありましたね。

また、梅子自信が大学を出ていないことに引け目を感じていたり、国のお金で留学させてもらったから「恩返しをせねば」と縛られていたという描き方もされていました。

 

改めて生物学を学ぶために選んだアメリカの大学は、ブリンマー大学です。

ブリンマー大学は、アメリカペンシルベニア州ブリンマー(フィラデルフィア郊外)にあり、東海岸の名門女子大学7校(セブン・シスターズと呼ばれるが現在も女子大学のまま残っているのは5校のみ)のうちの1校です。

二度目の留学から帰国の後、津田塾大学の前身となる「女子英学塾」を開きました。

ドラマは開塾の場面から日記の最後の言葉に飛んで終わりましたが、梅子は女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じて、女性の高等教育に生涯を捧げたのですね。

広瀬すずさんの津田梅子は、帰国したばかりで日本語がたどたどしく可愛らしかったところから後半の迫力と存在感まで見事でしたね。

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津田梅子と一緒に留学した留学メンバーは誰?選ばれた理由は?

アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使の次官・黒田清隆は未開の地を開拓する方法や技術を学ぶ目的でアメリカに留学生を贈ることを思いつきます。

西部の荒野で男性と肩を並べて働くアメリカ人の女性の姿に感動した黒田清隆は、女性も一緒に留学させることにしました。

政府主導による10年間の官費留学という形での派遣が決まり、岩倉使節団に随行しての渡米となりました。

「男女若干名」という枠の中で、当初、女子の応募者は皆無だったそうです。

女子に高等教育を受けさせることが珍しかった時代に、外国へ渡り教養を学ばせることはとんでもないことでした。

そんな中あつまったメンバーが年齢順に上田悌子吉益 りょう山川捨松永井 繁、そして津田梅子の5人。

留学当時の年齢は上田悌子、吉益 りょうがともに15歳、山川捨松が11歳、永井 繁が9歳、津田梅子が6歳でした。

5人の年齢は様々ですが、旧幕臣の子であったり外務省職員の子でした。

海外交流時代の到来を意識していたのかもしれませんね。

いずれも戊辰戦争において賊軍とされた幕臣や佐倉藩家臣の子女だったため、賊軍と娘の留学を汚名返上の機会と捉えたのでしょう。

留学メンバーのキャストはこちらにも詳しくまとめています。

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津田梅子と一緒に留学した5人目の上田悌子はなぜドラマにいない?

日本初の女子留学生5人のうち、ドラマ『津田梅子〜お札になった留学生〜』に登場するのは4人だけ。

前に名前を上げた5人のうち、上田悌子は登場していません。

その理由は、上田悌子が10年間の官費留学を離脱しているためです。

眼病のため吉益 りょうもわずか1年で帰国しました。

表向きの理由は吉益 りょうと同じく病気ですが、上田悌子の帰国は異文化に順応するのが難しかったためと言われています。

年少の津田梅子たち3人に比べて、すでに思春期を過ぎていた年長の2人は日本で親しんだ価値観と異なるアメリカの生活が辛かったのかもしれませんね。

山川捨松、永井 繁、津田梅子の3人は帰国後も親友として交流を続け、日本の女子教育を切り開く存在となっています。

官費留学、つまり血税を使って留学させてもらったのに、志半ばで断念することに責任を感じていたという上田悌子は、ドラマのなかでも帰国後も結婚したものの家に引きこもりがちと語られていました。

1916(大正5)年にそのときすでに他界していた吉益 亮を除く3人と約40年ぶりに再会を果たしたと言われています。

責任感が強く、留学を完遂できなかったことをかなり気に病み、長く引きずってしまったのですね。

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まとめ

津田梅子の留学先や留学したメンバーについてまとめました。

津田梅子と一緒にアメリカに旅立ったのは5人でした。

上田 悌子吉益 りょう山川 捨松永井 繁、そして津田 梅子です。

上田悌子はドラマ『津田梅子〜お札になった留学生〜』にはほとんど登場しませんが、共にアメリカに渡った初の女子学生として日本の女子教育の行末を気にしていたようです。

女性の高等教育はおろか、海外留学などもってのほかだった時代、海を渡ったたくましい5人の女子留学生たち。

ドラマでは何度も唇を噛む場面が印象に残りました。

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